出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/08 13:21 UTC 版)
1839年、ムデワカントン・ダコタ族のクラウドマン酋長が、オジブワ族との抗争が再燃した時に、ミネアポリスのカルフーン湖から現在のブルーミントン南部ポートランド・アベニューに近いオークグローブと呼ばれる地域に、そのバンドを移動させた[4]。1843年、最初のヨーロッパ人開拓者としてピーター・クインとルイーザ・クインがブルーミントンに住み、ミネソタ川沿いに小屋を建てた[5]。彼等はインディアンに農業の方法を教えるために政府から派遣されて来ていた。宣教師のギデオン・ポンドがクラウドマン酋長のバンドに付いてダコタ族の言語を記録していたが、その年遅くにその丸太小屋を移してオークグローブ伝道所を設立した。ポンドとその家族が礼拝を行い地元のダコタ族に学校の教科と農業を教えた。1849年にウィリアム・チェンバーズとジョセフ・ディーンがブルーミントン渡しの運行を始めてミネソタ川を渡る手段ができた。この渡しは1889年にブルーミントン・フェリー橋ができたときまで運行された。
不安や抑うつのための中西部センター
1851年にトラバース・デ・スー条約が締結されたことに続いて、ブルーミントンを含むミシシッピ川より西の領土が開拓者に開放された。ブルーミントンに入植した開拓者集団にはグッドリッチ、ハロン、およびエイムズの家族が含まれていた。彼等の出身地だったイリノイ州ブルーミントンに因んで、この町もブルーミントンと名付けられた。名前が意味するものは「花咲く草原」だった。最初期の職業といえば、農業、鍛冶屋および製粉屋だった[6]。カナダから来たオックスボロ家がリンデール・アベニューに交易所を建設し、オックスボロ・ヒースと名付けた。現在、その交易所があった場所にクロバーリーフ・ショッピングセンターがあり、近くにあるオックスボロ・クリニックはこれに因む命名である。バリフ家がペン・アベニューとオールド・シャコピー道路に食料雑貨店を開店し、ヘクター・チャドウィックは開拓地に来た後でブルーミントン渡し場近くに鍛冶屋を開いた。1855年、ハリソン嬢の家で全ての子供達に最初の公共教育が始まり、1859年には最初の学校であるギブソン・ハウスが開校した[6]。1858年5月11日、この日にミネソタがアメリカ合衆国の州として公式に認められ、住人25人がブルーミントンの町制を始めた。1880年までに人口は820人にまで成長した[7]。1892年、最初の町役場がペン道路とオールド・シャコピー道路に建設された。この時までにミネアポリスに最も近いダコタ族はギデオン・ポンドの住宅に住んでいた[4]。
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1900年代 - 1930年代
1900年以後、人口は千人を超え、ブルーミントンは都市に変わり始めた。人口の増加と共に市民の間に社会的な問題に関する紛争が持ち上がってきた。この期間の大きな問題の中には、個々の学校を解体してより大きな統合学校にすることに父母達が賛成しなかったことや、税金を上げることに対する恐れがあった。1900年までに地域には6つの学校があり、1年生から8年生まで200人以上の生徒が入学していた。1917年までに学校の統合問題は解決された。この年、有権者達が学校の統合を承認し、1年後に中等教育やスクールバスによる登校が始まった。この頃電話や自動車が町に現れた。
1940年代 - 1950年代
1940年から1960年の20年間で、市の人口は1900年頃の9倍にまで成長した。1940年代、市の成長計画は低コストの低密度住宅であり、家庭用井戸と浄化槽が付いているというものだった。人口の急増は第二次世界大戦が終わり、その後にベビーブーム世代が生まれたこともあった。1947年、最初の消防署が建設され、24,000ドルをかけて装備が施され、25人の隊員からなる自警消防団が作られた。
1950年代にはそれまでの小さな町の雰囲気から離れて市域の拡大とインフラの整備が行われた。1950年、人口増加のために、最初の小学校であるシーダークレスト校が建設された。一つの統合学校だけでは増え続ける人口にもはや対応できないことが明らかだったので、学校体系が市民のニーズに対応できるようにこの期間に新設校10校が建設されることになった。1952年、最初の大企業であるトロ・マニュファクチャリング会社がブルーミントンの町に移ってきた。このことの重要さは、今日あらゆる種類の数百の事業がブルーミントンを本拠にしていることに見て取ることができる。
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1953年、ブルーミントンはタウンシップからビレッジ形態に変更した。行政をより専門的な形態にしたことで、公開の政策委員会、土地利用計画および公開予算が可能になった。この新しい行政形態の効果は直ぐに始まり、まず納税者当たり2ドルのコストで警察署ができ、次に最初の公園用地取得が行われた。住民当たり1ドルのコストでブッシュレイク・ビーチとモワール公園が建設された。今日市内の土地のおよそ半分は市と地域公園、遊技場およびオープンスペースに寄贈されたものである。1956年、最初の市土地利用計画で州間高速道路35W号線とメトロポリタン・スタジアムの建設が始まった。
1958年、ブルーミントン市はビレッジ形態政府から市政委員会・シティマネジャー形態に移行した。この委員会で最初に採択された方針の1つは商業と工業を誘致し、低コスト住宅とショッピングセンターを奨励することだった。人口の急増のために警察署と消防署は24時間待機体制に移行し、消防署はこのとき隊員46人だったが、1つの車庫を第2消防署に転用した。
1960年代 - 1970年代
1960年代には市全体で学校と事業の成長が加速した。1960年11月8日、市の組織化文書である市憲章を有権者が承認し、ブルーミントンは正式に市になった。この市の憲章は市政委員会・シティマネジャー方式を採用し、市政委員会が立法府となって市の方針全てを決定している。1967年、公式の第2および第3消防署が承認され、拡大する都市でより効率的に消火にあたれるような場所に建設された。1968年、州立ノーマンデール・ジュニアカレッジが開校し、最初の学生1,358人を受け入れた。1974年、このカレッジは研究域の拡大に合わせてノーマンデール・コミュニティ・カレッジという現在の校名に改められた。
1961年から1962年、ブルーミントン市はミネソタ州のあらゆるメジャースポーツ・チームの本拠地だった。1961年、メトロポリタン・スタジアムが完成し、ミネソタ・ツインズ(野球)とミネソタ・バイキングス(アメリカンフットボール)がレギュラーシーズンの試合を行った。メトロポリタン・スタジアムは当初マイナーリーグ野球アメリカン・アソシエーションのミネソタ・ミラーズのために建設されたが、メジャーリーグベースボールとアメリカンフットボールのために改修され拡張された。ツインズの最初の試合は4月21日であり(ワシントン・セネタースがツインズを5対3で破った)、バイキングズの最初の試合は9月17日だった(バイキングスがシカゴ・ベアーズを37対13で破った)。1967年ナショナル・ホッケー・リーグの拡張に伴 い、メトロポリタン・スタジアム近くにメトロポリタン・スポーツセンターが建設され、ミネソタ・ノーススターズがこの年遅くに試合を始めた。
1970年代には多くの新しいビルが建設された。1970年、ジェファーソン高校、ブルーミントン・アイスガーデン第1リンクおよび4番目の消防署が建設された。1971年、学校の生徒数が26,000人とピークを迎え、消防署は隊員105人にまで成長した。1974年の6時間を要した市政委員会で、女性がブルーミントン消防署に入ることを認められたが、最初の女性隊員アン・マジェラスが入隊したのは1984年になってからだった。1975年、ブルーミントン・アイスガーデンの第2リンクおよび5番目の消防署が建設され、消防署は1979年に6番目が追加された。
1980年代から現在
1980年代にはミネソタ・ツインズとミネソタ・バイキングスが町を離れたことで急激な変化が起こった。1981年9月30日、メトロポリタン・スタジアムで最後の野球試合が行われた(カンザスシティ・ロイヤルズがツインズを5対2で破った)。ツインズとバイキングスはミネアポリス中心街に新しく建設されたヒューバート・H・ハンフリー・メトロドームに移転した。1985年、ブルーミントン港湾局がメトロポリタン・スタジアムの土地86エーカー (344,000 m2) を買収し、それから2年足らず後にモール・オブ・アメリカのために土地利用計画を承認した。その2年後に起工式が行われ、1992年に開店した。今日モール・オブ・アメリカのテナントを全て合わせると約13,000人を雇用しており、ブルーミントン最大の民間雇用主となっている。1993年、アイスホッケーのミネソタ・ノーススターズがテキサス州ダラスに移転し、その1年後にメトロポリタン・スポーツセンターが解体された。2004年イケアの店が元メトロポリタン・スポーツセンターがあった場所の西端にオープンした。残りの用地はモール・オブ・アメリカ・パートIIの用地として計画されている。2006年5月、アメリカ合衆国で9番目に大きな屋内ウォーターパーク、ウォーターパーク・オブ・アメリカがオープンした。
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