2012年5月14日月曜日

摂食障害は問題なのか? - 井出草平の研究ノート


[摂食障害]摂食障害は問題なのか?

  プロアナは肯定しつつ、摂食障害は問題ではないとはいえない    

以前のエントリで書いた文章、

摂食障害と言ってもほとんどは死なないし、吐いたとしても死ぬわけではないから問題がない、という主張である。この主張には同意できない。

ということについて、macskaさんからいただいたレス。このレスに不十分ながら答えたいと思う。

まず、以前のエントリでこのように書いた理由は以下のようなものである。(前のエントリの補足も兼ねて)

摂食障害というものについて読んだり話を聞いたりし始めてから、複数の人間から言われたのは「摂食障害の何が問題なのだ」ということだった。食べなかったり、吐いたりはするものの、ちゃんと社会参加はしてるし、不自由はそれなりにあるかもしれないが、ちゃんと社会生活はできる。摂食障害であっても問題はないのではないか。むしろ、社会学者が問題ではないものを問題化しているだけではないのか、という批判である。前のエントリで書いて、macskaさんに引用してもらったのは、このときに言われたことへの反論に相当する。

こういう意見は、摂食障害というものに関係ない人から出てくるものではなく、どちらかというと当事者に近いところから出てくる。これは、医者への抵抗にも似た構造を取っている。医者が「摂食障害」を「病気」だと診断して、治療をするということに対して、当事者は抵抗を示すことがしばしばある。当事者は「私は病気ではない」と主張したり、今の自分の状況が悪くないことを説明したりするわけだが、この感覚に似ている。

これに対して「摂食障害」は趣味や趣向の問題として完全肯定する立場には同意できないというのが前のエントリで書いたことである。

前のエントリと同じように、問題を(1)摂食障害の原因(2)摂食障害によって起こるものという2つに分ける。

(1)摂食障害の原因


ミルクと小児肥満

端的に言えば、人生に問題が何もない状態で摂食障害になることはない。何かの問題を抱えているからこそ、摂食障害と呼ばれる事態になるのである。摂食障害は生きづらさの結果である。従って、摂食行動の異常性が問題なのではなく、異常な摂食行動を起こしている原因の方を問題にしているのである。食べなかったり、吐いたりする行動は奇異なものであるため、そういうところが注目されるが、それは摂食障害の表面的な部分である。問題なのは、摂食障害を起こす原因であり、異常な摂食行動ではない。摂食障害が問題ではないという主張は、異常な摂食行動に目を奪われているように思える。

摂食行動が異常であるからといって、その摂食行動に目を奪われずに、どういう原因で摂食行動が異常になっているのかを考える必要があるということである。これは、社会学とか医学という学問の問題ではなく、当事者や周りの人たちが取り組む問題としてである。

親や周りの間違えた対応の典型例が、食べないなら、食べさせればいいと、食事を強制することである。これはなんの解決にもならない。やせ細っていったり吐いたりすることに目を奪われるのではなく、そういう状況はあくまでも結果であるという認識がひとまず必要である。摂食障害を趣味や趣向の問題だと完全肯定することは、摂食障害を起こしている人生の生きづらさを放置することに繋がる。こういうことから、摂食障害を問題がないという立場には同意できない。

(2)摂食障害によって起こるもの

井上洋一氏が「痩せようとしたAnorexia Nervosa患者の多くは,やがて病気のメカニズムの中に閉じ込められてしまう」と述べていることに相当する。摂食障害は「あたかもあり地獄に落ちるかのように」そのループに閉じこめられ、新しい問題を生み出していく。

摂食障害は生きづらさの「結果」であるという視点とともに、摂食障害が「原因」となる生きづらさが生まれるプロセスにも注目する必要がある。

医者がよく指摘する身体的なダメージのみならず、自己コントロールの喪失や自尊感情の低下(参照)がある。社会参加が困難になったり、アルコールなどの他の依存症への遷移・併存もある。すべての当事者が人生に壊滅的なダメージを負うわけではないが、摂食障害になることによって少なからず新しい困難を抱えることになる。こういうことから、摂食障害は問題がないという立場には同意できない。


クリスマスうつ病時間

次に考えるのは、摂食障害が問題であるから、治療するべきかどうかである。摂食障害に対して医学の出来ることはそれほど多いわけではない。摂食障害は社会的に病気であると認識されているために、医者に行けば治るのではないかと思われがちだが、それほど簡単なものではない。確かに短期間で回復するケースもあるが、「うつ」と同じように、人生の問題として取り組み、生き方を見つめ直して、環境を変えて、5年から10年かかって良好な状態に向かうことが多い。

摂食障害の状態とは、摂食行動に依存している状態なので、摂食行動にどうしても目を奪われがちである。ここから、食べない人には食べさせる、たくさん食べる人には、食べさせないという方策がとられることが多いのだが、これはむしろ反治療的である。まずは、吐く人ならば、吐く環境を整えるようにして、(1)摂食障害の原因を除去しつつ、(2)摂食障害によって起こるループから徐々に逃れていくことが必要である。

以前、プロアナに対しては肯定も否定もせず、その中に肯定的要素を見ることが出来るのではないか?と言ったのは、ひとまず依存状態を安定させるものとして使えるのではないかという点に着目して言ったものである。

拒食の場合には、身体的にやせ細っていくため、家族や周囲から拒食を止めるようにうるさく言われることが多いし、時には露骨な批判まで受けることもある。モノを食べさせたい周囲と、食べたくない本人という対立から、当事者は孤立してしまうのである。この孤立した状況から自己肯定を得るために、同じ価値観を持った人間を求め、プロアナ的なものに走る当事者がいて、プロアナというものに求心力が生まれている。

プロアナが悪の根元だというのは、認識としてあまり正しくない。拒食状況にある当事者の考え方を察しない家族や周囲が、当事者の孤立を生みだすことがそもそもの問題なのである。当事者が孤立していってしまうところから、プロアナへのコミットが生まれやすくなっている。

従って、プロアナサイトを叩けば、問題は解決する訳ではない。プロアナサイトが無くなっても、当事者の孤立は解消されないし、プロアナに同じ価値観を見つけて、なんとか生きている人たちの心の支えも奪う可能性もある。


パイカの事実

プロアナを支持はしない。しかし、そこに肯定的要素も見出すことはできる。そして、そこから当事者の孤立を見いだすこともできる。プロアナが悪の根元であるという考え方からは、プロアナさえ叩けばという考え方が優位になり、プロアナで問題になっているのはいったい何なのか?ということが覆い隠されているように思えて仕方ない。

また、プロアナの話が出てくると必ず、ティーンエージャーがプロアナサイトをカッコイイと思って真似をするという批判もよく分からない。プロアナにコミットしない人間にとって、プロアナとはそれほどカッコイイものなのだろうか? これはちょっと痩せすぎなんじゃないか?という反応が一般的であり、カッコイイという反応は出ないはずである。

痩せ願望の結果の一つとしてプロアナがあって問題が繋がっていたとしても、両者の抱えているものが同じとは限らない。拒食というものは、痩せ願望によって方向づけられるものではあるが、拒食の当事者にとって重要なのは、カロリーを如何に少なく摂取するかということであったり、ウェイトをどのくらい低くできるかというものである。汗と努力の結晶としての「低体重」が達成感をもたらしてくれるのである。「汗と努力の結晶としての「低体重」」と「痩せ願望」は全く違ったものである。「汗と努力の結晶としての「低体重」」を体現しているプロアナをみたティーンエージャーがたとえ「痩せ願望」を持っていたとしても、両者の本質的な性質がズレている以上、「憧れ」は生じない。

従って、プロアナのデメリットや痩せ願望のあまり模倣者が出るといった主張は政治的説得のステレオタイプであり、検討の余地はない。プロアナの本質的なデメリットは、拒食の仲間を見つけて、競い合い、低体重への努力を重ねた結果、深刻な状態になる人が出るということである。一方で、メリットとしては、(1)プロアナが提供する孤立感の緩和、(2)摂食行動への執着から別のものへ努力目標を移動させるなどして結果的にプロアナから離脱していく機能がある。このメリットとデメリットを比較して判断することが必要なのだと思う。

今のところ、プロアナサイトを潰すことによって問題は解決しないということは確実に言えることであるし、プロアナのために死者が続出していくことが無い限りは、支持も否定も積極的にすることはできないように思う。


摂食障害というと拒食にスポットライトが当たるが、日本では拒食に比較して過食(嘔吐)が非常に多い(もちろんアメリカでも過食の方が多けれども)。拒食はアメリカの半分、過食は同程度の割合でいるということになっている。

摂食障害のループから逃れられずに、食べ吐きを続けて40歳、50歳と生きる人も最近増加している。40歳を越えて食べ吐きを続ける人に、環境を変えて、人生を見つめ直して、食べ吐きを止めましょうというのは、かなり難しい。最終的には食べ吐きをするのは、その人の人生であるという形で受け入れていくしかないとも思う。ただ、やはり、変えられる年齢で生き方を変えられるならば、変えた方が良いだろうと思う。これは、食べ吐きが無いならば、より良い人生になると思うからである。とはいうものの、摂食障害というものを抱えて不自由さを感じつつも、生きていくことを選択する人には、それは一つの生き方だということは一方で強く言いたいことではある。

摂食障害というものを考える時に、何が何でも治療だという姿勢には反対である。ひとまずは、摂食障害であっても良いじゃないかという受容が何よりも必要なことである。その上で、本人の状態が少しでも良くなるならば、良い状態になった方が良いし、そのためには摂食障害から離脱していくことが望ましい。個々のケースに関しては、受容の上での問題化をしていくことが最良だと個人的には思っている。

個々のケースに関しては、一見矛盾したものを時間差で行うことになる。しかし、社会的にはもっとシンプルである。摂食障害は器質的な問題によって起こるものではなく、文化的・社会的なものによって起こる。文化的・社会的な問題を抱えた現代社会において、生きづらさを抱え摂食障害と呼ばれる事態に陥っている人たちが非常に多くいるということは、社会の中に矛盾があり、社会が生きづらさを生み出しているということである。従って、社会の矛盾点を正す必要があり、このためには「摂食障害は問題である」と積極的に言っていく必要がある。これは、矛盾も諦念もなく、明確に言えることである。



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